March 18, 2004

『暇つぶしの時代』(橘川幸夫)

最近私が考えていることを代弁してくれたような本に巡り会ってしまった。

大量生産の合理的なシステムを追求する限り、情報化社会が進めば進むほど、システムの独自性というものは無意味になってくる。僕は、「成熟化した工業社会」に対して、生産(モノヅクリ)を目的とした社会労働の上部構造に、「遊びのような仕事」「仕事のような遊び」といった、社会労働と個人の時間の消費が一体となった社会イメージを持つ。

第二次産業は中国にますますシフトしていっている以上、日本が世界の工場の座を奪い返せるとは思えない。では日本の目指す姿はどこなのか?リストラによって職を失った中高年はどうすればよいのか?その回答が「遊びのような仕事」「仕事のような遊び」だと思うのだ。

どのようにモノを作るのか、お客さんがどんな顔をして買っていくのか……などということにはまるで関心の無い、売上高と経常利益だけに関心を持つプロの企業統治者が増えた。日本の現状の出口の見えない閉塞感は、こうした「管理する喜び」しか感じない人間たちが企業や組織のトップにいるからだと、僕は思っている。

企業統治者とモノヅクリのプロの戦いは、企業統治者が勝利し、街には敗者であるモノヅクリ(コトヅクリ)のプロが溢れている。しかし、日本はこの閉塞感から抜け出し、新たな社会に漕ぎ出すことができるのだ。

これから仕事をするなら、選択する方向は2つしかない。ひたすら企業規模を拡大して「組織を監理する喜び」を持つ方向か、オーナーシェフ型の経営を行い、自らが「作る喜び・売る喜び」を体現しながら生きていくか。どちらが正しいとは言えない。ただし、中途半端な形態はあり得ない、ということだけは肝に銘じておくべきだと思う。

私は後者を選ぶ。
農耕民族にあってると思わない?楽しそうだと思わない?

暇つぶしの時代-さよなら競争社会
橘川 幸夫

Posted by nino at March 18, 2004 11:27 PM | トラックバック
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